兵家が必ず争う要地
三国時代(西暦220年-280年)は東漢と西晋この二つ王朝があったの時期。三国は曹魏、蜀漢、東呉の三つの勢力が争った。赤壁の戦で、曹操は孫権と劉備の連合軍に負け、曹操は勢力圏を北方に制限されてしまった。それによって、天下三分の三国共存の基礎が出来た。徐州は東漢後期に曹操、呂布、劉備と袁術などが争った要地であり、徐州の戦で、曹操は劉備を負かし、徐州を支配した。
魏は三国の中で一番の強国で、曹操時代に大きく発展した。曹操は中国の歴史で「奸雄」と呼ばれ、知略戦略に長けているが人品劣悪という歴史的評価がある。彼の側には荀彧、賈詡、郭嘉など有名な参謀がおり、多くの必勝の戦略を授けた。しかし「我、人に背けども、人、我に背かせじ」という曹操の言葉からも分かるように、彼は猜疑心が強く、彼の優秀な参謀たちの末路は悲しいものとなった。
徐州の管理者だった陶謙が病気で亡くなった後、徐州を劉備に任せたが劉備は呂布に敗北し、呂布に徐州を奪われた。呂布と戦うため劉備は曹操を頼り、曹操と呂布が戦っている間に徐州を取り戻したが、結局劉備は無敵の曹操に負けて制圧されてしまう。
劉備は呂布の配下で城を守備していた時に、袁術は劉備に攻撃をしかけた。呂布は劉備を守るため袁術の将軍を宴会に招き酒を飲み交わし、自分は矢で百五十歩の離れた画戟に当てる事が出来ると言い袁術の将軍と賭けをし当たれば兵を引くとの約束を取り付け、見事成功し劉備を救った。
曹操の「奸雄」のイメージと違い、劉備は仁愛に満ち溢れるイメージを持たれている。有名な「三顧の礼」は劉備が諸葛亮を求めるため、三度も諸葛亮の家を訪れ、主人の昼寝を邪魔しないように門外で静かに待っていた誠実な態度に心を打たれ劉備に仕える事を決めた。
三讓亭の名称の由来は「三国延期」の徐州牧(牧は地方司令官)であった陶謙は劉備に対して行った「三譲徐州」の物語が元になっている。
曹操が徐州を攻めたとき、劉備は曹操の包囲網を突破し救出に駆けつけた、陶謙はこれに感謝し徐州を劉備に譲ると申し出たが、劉備はこれを断った、これが三譲のうちの一つの譲で、曹操の撤退後に陶謙は国民を前にして再度劉備にたいして国を譲ると申し出るが劉備はこれを断り、これが二つの譲、次は陶謙が死間際に再度劉備に徐州を任せると告げ、これが三つ目の譲となり、劉備はこれを受け容れ徐州の長となった。
徐州土山古鎮の関帝(一般では関羽という名称)廟、後ろには英雄関羽の「過五関斬六将」の物語がある。関羽は曹操の計略にかかり、徐州土山で囚われてしまう。 関羽の功績を認めている曹操は関羽を殺さず劉備の元へ返した。