風立つ彭城
楚漢戦争は紀元前206年から紀元前203年の4年間にわたり続いた。
秦末期に陳勝、呉廣の武昌起義が始まり、これをきっかけに各勢力が秦の横暴な政策に反旗し、最後は巨鹿の戦いで秦が敗北、戦争は終焉した。
その後、楚王項羽と漢王劉邦の間に権力紛争が始まり、元々は劣勢であった劉邦が最終的に勝利し天下一統、漢を興した。
項羽ゆかりの場所
鉅鹿の戦いなど勇猛果敢で有名な項羽の中国歴史家の評価は、勝者の劉邦よりずっと高い。 紀元前208年、項羽率いる数万の楚軍と秦の武将章邯と王離が率いる40万の大軍が衝突し鉅鹿の戦いが始まった。 秦軍に鉅鹿城を包囲され項羽は自ら軍を率いて黄河を渡り、3日分の食料だけを残して渡河の船や鍋などを捨て、背水の陣を敷いたことで楚軍は秦軍に奮戦、ついには兵力では劣る項羽が秦軍を打ち破り勝利を得た。 秦はこの敗北で命脈尽き、項羽は「楚王」と名乗り彭城に都を置いた。
紀元前206年、「力山を抜き気は世を蓋う」と言われた英雄の項羽は秦滅亡後に「西楚の覇王」と名乗り彭城を都とした。城内の南山に高台を構築し、騎兵の訓練を眺める場所として、「戯馬台」という名を付けた。
劉邦は自軍各軍勢を垓下に集結させ、韓信を先鋒に側面と後方の三方から、項羽率いる10万の楚軍を攻撃し大打撃を与えた。楚軍は劣勢となり、これに乗じて劉邦軍は追い打ちをかけ楚軍は大敗した。敗れた楚軍は防塁に籠もり防衛したが、夜に防塁の四方から漢軍が歌う楚の故郷の歌が聞こえ、敗北を確信した項羽は妻の虞美人に別れを告げるが、別れたくない虞美人は項羽の為に最後の舞いを踊り、その途中に剣で自害したという逸話が残っている。 漢軍に追い込まれた項羽はわずか二十八騎の部下と一緒に鳥江まで切り込み、最後は自ら首を刎ねて自害した。
劉邦ゆかりの場所
徐州沛県で農家に生まれた劉邦は沛県の亭長(数十戸の家庭を管理する小役人)であったが、陳勝呉広の乱に乗じ三千人を集め、沛県を占領し「沛公」と呼ばれるようになった。 劉邦は人材を見る目に優れ、同じ徐州出身の軍師張良、相国蕭何、及び江蘇省淮安市出身の大将軍韓信などの有能な部下を全面的に信頼し、その才を遺憾なく発揮させ、項羽を破り天下を統一した。
天下を統一した劉邦は、元々は十戸を管理するだけの泗水の亭長(小役人)であった。この時に彼はその覇業を助ける人材に出会うことになる。泗水亭公園にある「泗水亭碑」には、劉邦の沛県での前半生の物語が記載されている。興味がある方はガイドさんの案内を聞いてみよう。
紀元前196年、既に天下統一をしていた劉邦は「英布の反乱」を平定した遠征から戻る帰途、故郷の沛に立ち寄り宴会を開き「大風歌」を歌った。「大風起こりて雲飛揚す、威海内に加わりて故郷に帰る、いずくむぞ猛士を得て四方を守らしめん」その後、劉邦は英布戦で負った矢傷悪化し死去した。 歌風台はこのため建築され、中に歌風碑があり、碑に刻んだ珍しい中国の書道作品も見逃せない。